【ご縁つなぎ対談②】

済宗円覚寺派の横田南嶺管長と対談させて頂きました。

「清潔な現場と綺麗なトラックで “人から人”へのお客様の気持ちを大切に、安全・安心輸送で社会に貢献する。」

これは私たちの企業使命ですが、人から人へというのは、まさにご縁をつないでいるにほかなりません。

考えてみれば、わたくし笹本清美はここ一番の大切な時にいつも誰かの言葉に勇気をもらい、救われてきました。そんな素晴らしいご縁によって得た言葉を大切にしていきたいと思います。

さらに素敵な機会に出合いたくて、わたしが日ごろから気になっている方々と人生や仕事について対話を行ないます。

第二回は臨済宗円覚寺派の横田南嶺管長に教えを乞います。

第2回

ゲスト

横田南嶺老師

私たちは何のために生まれてきたのか?

――厳しい修行の世界に身を置き、禅の道を歩み続けてきた名僧にたずねる

主宰 白根運送代表取締役社長 笹本清美

協力 PHP研究所

構成 若林邦秀

写真 小池彩子

プロフィール

横田南嶺(よこたなんれい)

臨済宗円覚寺派管長。花園大学総長。1964年和歌山県生まれ。大学在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。1991年より円覚寺僧堂で修行し、1999年、円覚寺僧堂師家に就任。2010年、同派管長に就任。2017年、花園大学総長に就任。著書に『二度とない人生を生きるために』(PHP研究所)、『禅と出会う』(春秋社)、『十牛図に学ぶ』(致知出版社)など多数ある。

笹本清美(ささもときよみ)

1954年生まれ・会計事務所勤務を経て白根運送に入社。1992年に先代の父から社長を引き継いだ。主に飲料水などの食品を取り扱い、倉庫業、請負業も手がける。社員教育の一環でお茶席の体験などの文化体験会を積極的に行なう。裏千家教授。松下幸之助経営塾第1期生。

◆感謝する心を持っているかどうか

笹本 私たちは生まれた瞬間から、死に向かって歩き始めています。いつかはわからないけれども、死ぬことだけは確実にわかっています。だからこそ、いま生きていることに感謝することが、とても大事ではないかと思うのです。

私たちは、この世にポンと生まれてきたように思っていますけれども、じつはこの地球上に生命が誕生した瞬間から、いのちはずっとつながっています。いま、ここに私が生きているということは、奇跡に近いことなんだと。そのことに気がついてほしくて、私は社員と接するときに、折にふれ「あなたはこの世に何しに生まれてきたの?」と問いかけています。

今日は横田管長とお話しする機会をいただき、ぜひこのことについてお伺いしたいと思ってやってまいりました。

横田 これは大変なお題をいただきました。

誰しもみな「オギャー」と生まれてきたというのが正直なところで、「○○のために」というのは、たいていは後からつけた理由ではないでしょうか。

そこで、「何のために生まれてきたのか?」――この問いを、もう少し身近なところに置き替えてみて、たとえば「何のために会社に入ったのか」を考えてみましょう。

「会社の理念に共感したから」「世の中に貢献したいから」など、いろいろな理由があるでしょうが、いちばんよいのは、「この会社に入ってよかった」と思えることですね。

会社の規模や業績ではなくて、「ああ、この会社に入ってよかったなあ」という思いを持てることがいちばんの幸せです。

生まれてきたわけというのも、同じだと思います。「ああ、この世に生まれてきてよかった」——そう思えることが大事です。

笹本 そのとおりだと思います。私は白根運送の社長として、社員が「この会社に入ってよかった」と思えるような会社にしなくてはならないと思っています。でも、それがとても難しいんです。

どうすれば社員の満足度を高められるのだろうかといつも苦心しています。「この会社に入ってよかった」と思ってもらうために大事なことは何だとお考えでしょうか。

横田 社員の満足度を高めるためには、労働環境をよくするなど、やれることはたくさんあると思います。でも、究極的には、そこで働く人が感謝する心を持っているかどうかではないでしょうか。

私たちが働くことができるのは、いのちがあるからです。いかに苦しい人生であっても、生を与えられているということ自体、これほどの喜びはないのです。

最近、とある聴覚障害のある方のお話を伺いました。まだ30代の方です。数年前から耳が聞こえなくなったのですが、現代の医学はすごいのです。耳の中に人工内耳を装着することで、9割がた意思の疎通ができるようになったのだそうです。

ところが、普通の人は、人の会話も聞こえれば、鳥の鳴き声も聞こえてくる。風の音、音楽も聴くことができる。けれども、その方は人間の言葉しか理解できないというのです。鳥が鳴いても鳥の声とはわからない。風が吹いても風の音とは聞こえてこない。

最先端の科学技術を駆使した精密な人工内耳でも、聞き取ることのできる音は非常に限られていて、人間の耳のようにあらゆる種類の微妙な音を聞き分けることはできないのです。

江戸時代の禅僧・盤珪(ばんけい)禅師は、こうおっしゃっています。「鳥が鳴いていたら、鳥の声だと聞こえる。それが仏の心だ」と。

「そんなことは当たり前じゃないか」とわれわれは思うわけです。しかし、それは当たり前ではない。聴覚を失ったその方にとっては、鳥の声を聞くこと、それが鳥の声とわかることは奇跡なんです。われわれは失ってはじめて、そのことに気づくのです。それを思うと、こうして目が見えて、耳が聞こえるだけで、幸せなんだなと思います。

◆私たち自身が仏である

笹本 とても大事なお話をいただきました。「当たり前だ」と思ってしまうような言葉の中にも、深い意味があるんですね。

仏教には「無事是貴人(ぶじこれきにん)」という言葉があります。私たちは、「無事であることはいいんだ」程度の解釈をしていますが、これにはどんな意味があるのでしょうか。

横田 「今日も無事故でよかった」「病気もせず無事に過ごせてよかった」と、それもいいですけれども、『臨済録』には、「無事是れ貴人」と書かれています。これと似た「無事之名馬(ぶじこれめいば)」という言葉がありますが、もう少し掘り下げた定義がなされています。

結論から言えば、「外に向かって求める心がなくなったときが無事である」という意味です。

仏教の理想は仏です。通常、われわれは仏という完成された人格は、自分とは別にあると思っています。お釈迦様、阿弥陀如来、薬師如来など、立派な仏様は自分の外にいらっしゃり、少しでもそれに近づきたい、あやかりたいと求めます。

ところが、『臨済録』の教えは、仏は外に求めるものではない、仏とは自分自身であることを自覚せよというのです。

仏像展があれば、多くの人が見に行きますが、自分が仏であることをみんな知りません。

ある日あるとき、自分が仏であることに気がついたら、もう仏像を見に行く必要はありません。その人がごはんを食べていても、歩いていても、寝ていても、すべての営みが仏の姿です。

これが「無事是れ貴人」です。仏を外に求める必要がなくなって、「ああ、自分自身が仏だ」という自覚ができれば、あとは安らいでいられる。それを「貴人」というのです。

ところが、多くの人はそれでは納得がいきません。「なぜ自分のようなものが仏なのか」と否定してしまいます。長年、学校や社会という点数で評価される世界に住み、「お前はダメだ」「今のままじゃダメだ」と言われ続けてきたから、ダメだと思い込んでいるだけです。

耳で音を聞く働き一つをとっても、現代の最先端の人工内耳をしてもとても及ばないような耳を、誰しも持っているのです。私たちの目、鼻、肺、心臓……どの器官、どの臓器をとってみても、生命誕生以来のすばらしい進化発展の賜物です。そのままで仏――これが臨済で説かれている「無事」という思想の根本なのです。

◆他のために生きるのが、人として最大の喜び

笹本 そのとてつもない「いただきもの」を、他のために生かすというのは、すばらしいことですね。

横田 先ほど、生まれてきた理由は「生まれてきてよかった」と思えることがいちばんだと申しあげました。

では、どんなとき「生まれてきてよかった」と思えるのか。それはやはり、人に喜んでもらえたときではないかと思います。

自分が何を手に入れたとか、何かを達成してよかったというよりも、人に喜んでもらえてよかったというほうが、人間にとって最大の喜びではないでしょうか。

私を禅の道へとお導きくださった松原泰道先生に何度も伺った話があります。同じお寺で育った、先生のいとこに葛谷(くずたに)(じゅん)(いち)という方がいらっしゃいました。戦時中の話です。大学卒業後、修行道場にいた葛谷青年に召集令状が届き、当時の名古屋師団に衛生兵として入隊しました。そんな頃に「もう会えないかもしれない」と葛谷青年は名古屋から松原先生の元にあいさつに訪れます。

先生は彼の好きなお茶でもてなそうと、とっておきの玉露を淹れました。そして「その水筒にも入れてあげよう」と言うと、葛谷青年は言いました。

「この水筒は私のものではありません。ケガ人や病人のために必要になるかもしれません。そういう人に玉露は良くありませんから」と言って、台所で番茶を入れていったのだそうです。

これが松原先生が見た葛谷青年の最後の姿でした。自分が持っている水筒ですら、これは自分のためにあるのではない、人に飲ませるための水なんだと。それが葛谷青年の生き方でした。

もうひとつ、松原先生がよく話されたのは、おのぶさんという全盲のあんまさんの話です。あるとき、おのぶさんは「うちに外灯をつけました」と言うのです。松原先生は言いました。「あなたは目が見えないというのに、外灯をつけるなんて無駄遣いも甚だしいではないか」と。すると、おのぶさんは言いました。「私は暗くても平気ですが、外を歩く人が不自由らしいのです」と。

人はどんな境涯にあっても、他のために生きるという生き方があるのです。

私たちはともすれば、大きな財産を得たり、いいものを食べるなど、自分の欲望を満たすことが幸せだと思いがちです。しかし、どんな環境にあろうとも、人に喜んでもらうことが最上の幸せなのである――葛谷青年やおのぶさんは、そのことを教えてくれているのではないでしょうか。

笹本 とても大事なことですね。横田管長、本日は貴重なご講話をありがとうございました。